座右の映画
6月30日・7月2日と立て続けに感動の映画を見ました。その感動を少しでも活字に残しておきたかったので。
元々私は映画を見る習慣はありません。見るとしても家で見るぐらいでして、映画館で見たのは中学2年の時に香港で見た「バットマン&ロビン〜Mr.フリーズの逆襲〜」かなんかが最後でして、日本で映画館に行ったのは昔昔の「のび太とブリキの迷宮」が最後だったと記憶しています。そんな私が突然行って見る気になったのには訳があります。やはり映画好きの友達T木君が原因でしょう。
それはともかく何を見てきたのかと申しますと、「アイ・アム・サム」と「マジェスティック」です。アイ・アム・サムは、7歳の知能しか持たぬ父親サムが子育てをする中で起きる数々の障害を乗り越え生き抜く姿を描いています。サムの娘ルーシーが7歳になった時、サムは学校教育の観点から娘を育てることは不可能だと鑑定され、法的に離れ離れにされてしまいます。弁護士を雇うにもお金がないのですが、弁護士が見栄で奉仕してくれることになり、ルーシーを取り返す希望がでてきます。最後にはルーシーを仮親として預かっていた親戚夫婦の母が、サムとルーシーの強い愛情のきずなに負けます。裁判の結果は分からず仕舞いなのですが、おそらく2人は幸せに暮らすのでしょう。
この映画で心を打たれたのは、きっとサムの生き方が前向きで一生懸命だったからです。障害者に対する僅かな偏見からくる同情もあったとは思います。しかし私が普段から感心することの一つに、直向(ひたむき)に生きる人がいます。がむしゃらでも必死な姿には心を打たれます。サムは娘の学校の教科書の単語さえ読めなくなって、ルーシーと一緒に本を読めなくなります。ルーシーはわざと単語が読めないフリをして父を悲しませないようにと気を使ったりします。お互い苦しい中で、愛しているから一緒に居たい、子を育てるという条件に一般知識なんて無い、思いやりと愛情があれば後は世間を見ながら立派に成長する。
私はどうしても人目を気にしてしまって、自分なりに真っ直ぐ進む勇気を持ったことがない。だからサムの姿には敗北を感じた、感動といものは立場が上の者から下の者への感情かも知れない。だとすれば私は感動ではなく、自分の情けなさに涙を流していたのだと思う。もっと真剣に生きるにはどうすればいいのだろう。これはこれからもずっと続く人生のテーマとなりそうだ。
そしてマジェスティックは、先ほどのアイ・アム・サムと違った感動をくれた。マジェスティックとは威風堂々という意味で、しっかりと自分を表現する、という風に解釈した。私の常に思っていることに、法律がどうであれ、文化がどうであれ、心に従った行動に勝る未来はないと信じている。私は色々な場面で他の人と意見の食い違いから衝突しがちではないかと感じている。班行動などの多人数の時でも自分が本心を抑える場面がある。一部の集団とはつりあいがとれるのだが、本当に難しい。
映画の中で、主人公は自分の信じる行動を取る事で人々に受け入れられる。相手が国家であろうと何であろうと、その者の直向な姿が多くの人を魅了する場合だってある。私はそういう強い信念を突き通す人と共にそれらを認める人達にも感動を覚える。やっぱり自分がうまくいかないせいもあるのだろう。主人公が英雄になる姿を見て、現実世界ではそぅうまくは行かないという考えから来る嫉妬を感じた。しかしせっかく見た映画を無駄にはしたくない、この2本は俺の心の教材なんや。心のフィルムなんや。映画の中で人々が主人公に心を打たれたように、私もまた、より多くの人に真剣な姿と真直な行動を評価してもらえるような男になりたい。
だからこの2本はずっと心の奥に閉まっておきたいと思う、すぐ見れる場所に
・アイ・アム・サム
・マジェスティック