うそから牡丹餅

〜  うそをうまく使うために 〜

3年 9組 15番 ○○ ○○ 

2002年1月28日


目次


要約

 誰もがうそをつきます。一般にうそをつくことは悪いことです。そういいつつも、知らず知らずの内にうそを使っているのではないでしょうか。それはうそが本能的に必要とされるからです。うそとは動物の生存への本能が発明した、一つの能力なのです。うそとはさみは使いよう。


序章 うそへの興味

 私達動物はそれぞれ特有の言語を持っています。特に人間はその進化の過程で、人間間の意志の疎通を他の動物より正確に伝えることを可能にしました。言葉を発するのは人間だけではありませんが、中でも人間が最も言語を活用していると言えます。そして変な話ですが、私達が普段話す言語は大きく分けて2つ、真実とうそに分けることができます。どんな人間でも自分の意思を伝えるために言葉(真実)をしゃべっていますが、それと同じ程度の意味を持って、うそをつくことも大事ではないでしょうか。そんな日頃当たり前のように使っているうそを解明することで、うその正体を探りたいと思います。


 

第一章 ウソの力

 「私は嘘が大嫌いだ」であるとか「私は嘘をついたことが無い」と言う人がいます。しかし、それこそ嘘だと断言出来るほど嘘は日常に溢れかえっています。例えば仕事をしている時、ウソはものすごく効果的に使われています。典型的な例は、「さすが太っ腹〜」などのお世辞ウソだろう。本心だけを発信していてはうまく人間関係を保持することが出来ず、ほぼ付き合いから出るウソ会話が世間に多数存在しているであろうことは、まだ18歳の世間知らずでもすでに見知っていることである。また、本来の意味が形骸化してしまったかの様に用いられる「おかげさまで」などの「あいさつ」の類もこれに含まれる。日本では特にこういった礼儀を重んじる傾向が強いといわれるが、とにかく無数の罪のないウソにどっぷり浸かっている。ここで大事なのは、これらのウソは言う側も聞く側もそれらをお世辞(ウソ)であるとか世間体(ウソ)であるというように意識することなく会話しているということだ。お互いに納得(無意識のうちに)している現代社会において、ウソをつけるということは、善悪を唱えるよりむしろ一つの能力と考えるのが普通です。だから、ウソをつくことをあからさまに悪いと決めつけることは間違っています。あなたもウソをついて築いてきた、くぐり抜けてきた今をもう一度見つめて、これからの人生を有意義なウソで切り開こうではありませんか。

 

第二章 ウソ→犯罪?

 ところで、日常にはもう一つの嘘が潜んでいます。ウソが互いの一致を無視して一方的になった時、ウソは犯罪の域に達します。詐欺がその最もな例です。ここに嘘と知能犯に関する情報があります。「読者アンケート」という週刊誌と警察白書のデータなのですが、それを用いて「嘘は泥棒のはじまり」かどうかが考察してみます。

・うそをつくのは仕方がない→はい

1位 千 葉 39.0% 2位 大 阪 37.5% 3位 東 京 37.2%
4位 埼 玉 36.4% 5位 京 都 36.0% 全国平均 32.3%
         
・窃盗犯の認知件数

1位 東 京 19.5万件 2位 大阪 16.9万件 3位 福岡 11.4万件
4位 神奈川 10.6万件 5位 埼玉 10.1万件

・知能犯の認知件数

1位 大 阪 9824件 2位 愛 知 4314件 3位 東 京 3799件
4位 広 島 2388件 5位 千 葉 2224件


 これらから分かることは、うそをつくのは仕方がないと答えた人が多い地域は、人口の多い都市であるということです。人込みの中で生活していると、自分の立場が危ういときに、ついつい人を騙して儲けようと考えてしまったりといった誘惑が発生しやすいのではないでしょうか。また、窃盗犯・知能犯の認知件数は人口に対する割合ではないので、人の多い大都市が名を連ねるのは自然だといえます。しかし、あまりにも傾向がはっきりと出過ぎではないでしょうか。人との触れ合いが多い人ほどうそに対する正当化のようなものがなされていると考えられます。
 さて、窃盗犯(泥棒)はあまり関係ありませんが、知能犯とはまさに嘘で人を騙す犯罪(詐欺)です。注目したいのは大阪である。大阪は知能犯が他と比べて圧倒的に多のです。ある大阪人はこう言うておられます。「嘘つきが泥棒(窃盗犯をさす)なるんやのうて、泥棒するような人間は嘘を平気でつく。これはそういう意味やと思うんやけど。極端な話、それだけ嘘ばっかりついている人間は窃盗犯より、むしろ詐欺師を目指すんとちゃうやろか」。確かにその通りで、嘘を職業にしている人もいます。推測ですが、嘘をつくのは仕方がないという調査での大阪の位置は、実質1位なのではないか、おそらく40%以上ではないかと考えます。何故ならば、全国の都道府県の中でも、大阪では嘘を商売道具として工夫され使われてきた歴史があると、県民性を比較した本などに書かれていたり、大阪人の間で暗黙の了解のようなものがあるような気がするといった発言が聞けるからです。もしこの仮定が正しいのであれば、嘘に対する罪悪感と異常なほどの知能犯の件数と関連性が見えてきます。ここで、罪悪感のない嘘は、当人にとっては嘘をついたことにならないということを思い知らされます。つまり、実際普段私達が定義する「嘘」とは、真実ではないことを喋ることではなく、罪悪感を持って喋るかどうかだということです。客観的に見た嘘でも、本人は嘘をついた意識がないのです。そういう意味で、大阪の詐欺師達は地域の文化環境に引き起こされた必然の産物なのかも知れません。人は時々自分を客観視する必要があるのではないでしょうか。そう、どんな「嘘」も始めは「ウソ」から始まります、そしてだんだん一方的で決して見逃してはならない嘘へと姿を変えてゆくのです。


 

第三章 うそを欲する

 では、何故人はうそをつくのだろうか。うそつきは泥棒の始まりという言葉があります。それも手伝って、子どもの頃から、うそをつくのは悪いことだと教えられて育った人が多いと思います。ここで、興味深いのは言語でうそをつく動物は人間だけだということです。心理学の見解でも、人間はむしろうそをつき、うそを楽しむ能力を授かったのだという考えもあります。うそだと知っていてママゴトをしたり、小説や映画の世界を楽しむことができること、それらがうそを巧みに利用する人間の姿だというのです。うそはそれぞれの目的に従って、区別することができます。大きく分けて、・直接的に利益を得るうそ・間接的に利益を得るうそ、に分類されます。しかし、すべてのうそにおいて共通することは、うそは、つく人の利益(欲)のためにつかれるということです。必ず自分の為のうそなのです。それが、自分にとって都合の悪い事柄を隠すにしろ、冗談で相手を脅かすにせよです。一章で述べた「あいさつ」などは、人間関係を円滑にするための手段であると考えられますし、いじめられっこが、仮病で学校を休もうとする理由は、親に心配をかけたくないためかも知れません。それらはすべて最終的には自分の欲を満たすことになるのです。僕自身、嘘には大変お世話になっております。僕の使ううそは、うそと言っても、冗談に分類するべきウソだと断っておきますが。
 次に、うそについてもっと精神的な意味を探ってみましょう。うその分別の一つに、心理学で「防衛機制」と呼ばれているものがあります。例えば、「いじめられるから学校に行きたくない」と隠し悩んでいる子に、本当のことを言いなさいと迫るのは残酷だとは思いませんか。そんなとき子どもはお腹が痛いなどのうそをついて、必死に逃げようとします。これが正常な人間の姿です。こういった自我を保護しようとする心の働きを悪と呼んでしまっては、せっかくうそをついた当人の気持ちを踏みにじることになります。だからうそは心理学において、自分を守るための重要な心の働きであると考えらえているのです。私も、自分を守るためにうそをついたことがあります。人一倍人目を気にする性格で、知らないのに知っているふりをして、後で調べたり、勘違いをしどろもどろ隠したりと数々のうそを繰り広げてきました。誰でも生きている以上は、自分を必死に守ろうとしてしまう場面が沢山あると思います。相手に迷惑をかけようという意図のないうそは、ついてもいいと思いますし、つける方が好ましいとされています。人間は集団で生きていく上で、誰もがうそを必要としているのです。


 

 

第四章 嘘の必要性

 さきほど述べたように、世の中には嘘を商売として生きている人がいることもまた事実です。一般に、詐欺師と呼ばれる人達のことです。この人たちはすごく強く、孤独な人たちです。自分が生活していくために、他人の前で演技をし続ける必要があるのですから。それを、平然と続けていられる人間の集まりです、一体彼らの心理はどうなっているのでしょうか。それは簡単です。さきほど結論づけたように、嘘をついているという意識が無い、または、嘘をついても罪悪感を感じないような心理に陥っているのです。人間の行動は、複数の欲の多数決で決定されます。例えば、普段10時に寝る人が、友達の家へ泊まりに行った時、10時に寝るでしょうか。もし睡眠欲に勝る欲が現れたとしたら、もちろんそちらが優先されます。それと同じように、嘘によって得る利益(快感など)が罪悪感を超えた時、平気で嘘をつくことが出来ます。何も嘘だけに限ったことではなく、誰しも、自分のために周りを犠牲にして生きています。嘘はその比較的目立つ分野に過ぎないと言えるのではないでしょうか。例えば、私達は餓死寸前のライオンの母が、久しぶりに狩を成功させて得た肉を、痩せた子どもから先に食べさせ、自分は周囲を警戒している姿を見て感動しないだろうか。もしくは、ライオンに群れで狙われたヌーを置いて、我先と逃げていくヌーの群れを見て、卑劣な奴らだと思わないだろうか。しかし、これを人間社会に置き換えてみたら、彼らは当たり前のことをしていることに気づきます。動物達の過酷な世界を戦時中に置き換えて考えると、親は子どもの栄養のために必死で少ない食料を与えていただろうし、今にも死にそうな人を見つけても、自分達が生活するだけで精一杯で、他の人を助けるほどの心の余裕などほとんど無かったに違いありません。生き物とは本来自分には正直でしかありえないのです。生物は皆同じです、人間も動物であり生物なのです。

 

第五章 うそは本能

 序章でうそをつく動物は人間だけだと言いました。うその役割を知るために、逆に何故他の動物は嘘を必要としないのかを考えてみます。まず動物の生活から何が分かるのか。人間を含めた動物にとって必要なことは、極論、生存のみである。だから、生存こそが、生物の最大の欲だと仮定しましょう。すると先ほど述べたように、自分の生存のために、他の全て切り捨てることが出来るはずです。さて、生きるためには何が必要だろうか。要は食べ物さえあれば生きて行けることになります。そのためには、動物は動物を殺して食いつなぐしかない。人間で言うと仕事にあたります。人間が仕事で人間関係を重視しウソをつくように、動物も相手を騙す工夫をして、獲物を捕らえるのでしょうか。動物の場合は相手が違う種の生き物なので、相手を騙して殺すなどということはないが、毒を持っているかのように変色する毒無し蛇などは、生存のための工夫をちゃんとしています。ということは、他の動物はうそをつかないことはなくて、言葉ではなく行動を通して使っているという様に考えるのが正しいのです。人間だけがうそをついている訳ではなかったです。うそは人間(動物)の生きる知恵の一面ということです。

 

結論 うそとウソと嘘 

 僕にとって大切なものは、自分の周りの人間です。そして、人と人を結びつけるものは会話だと考えています。私個人のうその定義ですが、うそはつき方次第で武器にも宝にもなるということです。やたらと会話にウソをまじえる所為か、よく人に嘘つきだと言われますが、その度にこう説明しています。自分は私達にとって大事なことで嘘をついて騙しはしない、その代わり、誰にも迷惑のかからないことにはウソをついて騙し騙されるのを楽しんでもいいのではないかと。それは自分の正当化ではないかと言われて当然ですが、なんにしろ、うそは定義も狙いも人それぞれですから、うそを良いとも悪いとも言うことは出来ないのです。どちらにせよ、うそとは必要から生まれた動物の知恵なのです。子どもがうそをつけるようなることは成長の一つであると、発達心理学は述べています。人間は、進化したからうそをつくようになったのではなく、うそをつくことで進化したとも言えるほど、うそは本能がもたらした素晴らしい発明品なのです。うそとウソと嘘を上手に使い分けることが、生きていく上であなたを大きく左右するに違いありません。


参考文献

1:http://www6.ocn.ne.jp/~sudo/osaka_098.html

2:「 嘘が見ぬける人、見ぬけない人 」樺亘純、PHP文庫

3:「言葉の心理術」多湖輝、三笠書房